味は立体、味覚は写真

僕は最近、レビューや周りの人の感想に惑わされずに
「自分はどう思ったのか」を丁寧に感じ取る意識をしている
自分は今嬉しいのか、悲しいのか。
やりたいのか、やりたくないのか。
楽しいのか、楽しくないのか。

味もしかりだ。
ドトールのさつまいもモンブランと紅芋モンブラン、
どっちが美味しいか聞かれても、「色の違いしかわからない」と回答する。
どこまでも細かく味がわかる風を演出しないで、
「自分はどう思ったのか」を丁寧に感じ取りたいからだ。

味比べで気がついたこと

牛乳を2種類買った

  • 「メイトー 濃厚」牛乳
  • 「雪印 特濃」牛乳

自分は、
メイトーの方が濃厚で、ミルク感があり、
雪印の方はあっさりしていて、甘くないショートケーキのような味わいに感じた。

妻は逆に感じた。
メイトーの方があっさりしていて、
雪印の方は濃厚で、ミルク感があるように感じたようだ。

おや、おかしい。ここまで真反対に感じるのか?
と思って、舌のこの部分で味わって、と伝えあって飲んでも、
お互いに「わかる気がするけどわからない」という状態だった。

そういえば他の食べ物でも心当たりがある。
ネギを焼いただけの料理は

  • 妻→最高にうまい。無限に食べられる
  • 僕→普通に美味しい。けど神がかってない

豚の角煮

  • 妻→うまい。けどさつまいものほうがうまい
  • 僕→最高にうまい。無限に食べられる。

人間、同じ”舌”という器官がついていながら、
ぜんぜん違うのではないか?と思った。

味覚について、こういうイメージを持っていた

味がわからない人↔味がよくわかる人
というレベルがあると思っていた。
でもそうではなく、


この味がわかる人、この味がわかる人
という集合の重なり合いなのだと思った。

味の形

でも疑問が残る。
みんなが美味しいと言うお店の料理は、大体誰が食べても美味しい。
人それぞれ味の感覚が違うのに、なぜ誰が食べても美味しいのか疑問だ。

ここで、思ったのが「味は立体的」という考えだ。
きっと、味は立体、味覚は写真、なのかなと思った。

例えばこうだ
自由の女神を見るとみんな、「自由の女神だね」と言う。
「美しい形だ」と言う。
見え方が違うはずなのに。

シンプルな形であるほど、
人によって「これは四角だね」「これは丸だね」と違う反応になる。
「角ばっている形だね」「なめらかな形だね」と言う。
実際はどちらも正解で、どちらも間違いだったりする。

味を深く知るには

「自分はこう見えた」というのは紛れもなく事実だ。
でも「自分が見えている通りの形だ」というのは間違っている。

いろいろな人の見え方を聞いて、
本来の形を確かめることで詳しく味を知れるのだろうと思った。